ヘイゼル・スミス: 内側からの見方
     Hazel Smith: A view from inside

http://nkzone.typepad.com/nkzone/2004/02/hazel_smith_a_v.html

2004年2月5日

ノースコリア・ゾーン・インタビューへようこそ。私たちの初登場のゲストは、イギリス、ウォリック大学国際関係論教授で、現在、東京の国連大学上級学術プログラム・オフィサーとして出向中のヘイゼル・スミス氏です。スミス教授は1990年以来、他の国々では朝鮮という言い方でよく知られている朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)に長く滞在していました。

スミス教授は、多くのアメリカ人にはあまり知られてないような朝鮮の姿、たとえば、劇的な社会的、経済的変化を経験している社会として、あるいは、地方政府の役人たちが他の住民たちと同じくらい生き延びるのに精一杯苦労しているというようなことを述べています。また彼女は、朝鮮政府は「交渉可能な体制」だとも思っています。

スミス教授がDPRKを訪問したのは当初、研究者として1990年、91年、94年のことでした。1998年と99年に、彼女はユニセフと世界食糧計画(WFP)のためにDPRKで3カ月ずつ仕事をしました。それから、2000年9月から2001年9月までの1年間、朝鮮で生活し、WFPとカリタスのために働きました。その後、彼女はウォリック大学とDPRK通商省との間での通商担当官養成のための交換プログラムを指導する研究者として、二度、朝鮮を訪問しました。

東京のスミス教授のオフィスへ電子メールでインタビューしました。

マッキノン:
あなたは2000年から2001年まで朝鮮で暮らし、それ以来、毎年訪問しました。主に平壌にいたのですか? それとも、他の場所へも出かけたのですか? それと、ここ数年の間のたくさんの変化を見てこられましたか?

スミス:
私は、慈江道以外のあらゆる道で働きました。(全部で12道あります。)私は、北東部の最も離れた地域も含めて、これらすべての道で食糧援助をモニター[=監視]し、食糧・医療・農業支援の効果を査定しました。私は、ほとんどすべての道の親のない子どもたちの入所施設(孤児院)に訪ねて行って、そこの職員にインタビューし、状況を観察しました。私は、あちこちの病院、診療所、農場、(一度はアメリカ援助を輸送するアメリカの食糧運搬船にも乗り込んで)港も、それに食糧配給所を訪れ、それから国中のこうした施設のあらゆる所で職員や受益者にインタビューしました。国際食糧援助を受け取っている人たちの家でインタビューしたこともありました。

最大の目に見える変化は、私が最初に訪問した1990年代初めと1990年代末との間にあります。

マッキノン:
その期間での最大の変化は、90年代半ばの飢饉のためだったわけですか? 事情が悪くなったと?

スミス:
観察できる、目に見える変化と、分析しなければならない進行中の社会変化とは違いがあります。

たとえば、人々の移動ということで目に見える変化が起こりました。私たちは今、それを見ることができます。なぜそうなったかというと、国家がもはや人々に物を送り届けられなくなったので、人々は生きるためには移動できなければならなくなったからなのです。100万人に達するくらいの人々が1990年代の飢饉で亡くなりました。しかし、おそらく2100万人に及ぶくらいの人々が生き残りました。それで、1つの疑問は、彼らはどうやって生き残ったのか、それに、政府が基本的なニーズ(つまり一年中を通じての十分な食糧や、きちんとした飲用水とか衛生面の設備や、薬などの医療品)を充たせるよう、物を送り届けられないときに、彼らはどうやって生き延びつづけているのかということです。

最初に起こったことは、政府が中心になってできないときに、個人や、各地の職場や農場や、地域の郡全体でさえも含めたローカルな地域社会に対して、飢えている人たちをどうやって食べさせるのか、という問題が突きつけられたことです。地方官僚たちは、彼らが代表している人々に対して、対処せざるを得なくなりました。おそらく民主的な仕方ではなくって。でも彼らは同じ場所に生きており、それに、しばしば密接につながった血縁関係のネットワークの一部なので、きっと説明のつく仕方でそうしたのでしょう。中国国境近くに住む人たちは、他にもいくつか選択できたのです。まず第一に国境を越えて材木を売るとかです。外国人に近づける人たちは、外貨を手に入れようとしました。しかし、ほとんどの人たちは、国内で小さな商売をやらざるをえなかったのです。それで、党官僚たち、(これは、小さな前衛党ではなく大衆政党だということを心に留めておきましょう。)彼らは、しばしば他の人々と同じくらい食糧や基本物資に事欠いていたので、地域の事業者が何とかして食糧を手に入れようと規則を回避するのを、積極的に黙認したのです。

政府はこういう事をやめさせようとしました。でも迷いました。それから、やめさせることはできないと悟りました。その後、結局、2000年代の初め頃ですが、人々が自分たちの経済生活を送るやり方での、こうした転換を現実として受け入れました。その時から政府は、そうした社会経済的変化のプロセスに振り回されるよりもむしろ、そのプロセスを監督しようと決めました。(とはいえ政治的にどうこうできる余地はあまりない、変化というものなのですが。)

また、この時までに、地方党組織、それに公安要員たちは、小規模商人の新たな中核組に変わって行ったのです。(彼らの全部ではなくとも、かなりの数が。)彼らは、コネ、輸送利便、それに、いかに規則を回避するかという知識の点でいちばん良い位置を占めている者たちでした。それと同時に動機もいちばんありました。デスクワーカーとして、彼らはたいてい自分たち自身の食糧の多くを作らなかったし、現地通貨ウォンでの彼らの収入は事実上、文字通り無価値だったのです。

目に見える変化は、国中で人の移動がものすごく増えていることです。1990年代初めに平壌では、街の通りには政府の乗り物しか走ってなかったし、自転車も見当たりませんでした。地下鉄やバスがだいたい動いていた時でも、たくさんの人々が歩き回っていたわけではありませんでした。田舎では実際、乗り物はなかったし、大衆の徒歩の移動という点で多くはありませんでした。

今や輸送手段があるとしたら、または、それを作れるとしたらどうでしょうか?(多くの家庭が乗り物を作っていました。彼らが輸送について何も心配せず移動できるというのは奇跡です。)それに、たくさんの自転車も。

さらに、人々がどこでも歩いています。平壌以外では、どんな公共交通機関もほとんどありません。それだから人々は、郡から郡へと歩くのです。出かけて行って親戚に食べ物をもらうとか、子どもが親戚に食べさせてもらえるよう子どもを預けに行くとか、あるいは、親戚のところへ食べ物を持っていくとか、などなどのためです。

違いがあるというのは、今や彼らは移動するのが認められているからなのです。それはまた、(その国のかなりの所で)公安機構の有効性が廃れているということ、それから、優先されるべき事柄が最近では違っているということの兆候なのです。この頃では、個人的な商売をやることは義務のように、しかも賢明なことのように見られています。なぜなら、人々は生き延びなければならないし、それなのに国は、生きるための物をもはや十分に与えられないためなのです。DPRKで1990年代の半ばに深刻な経済危機があり、当時の飢饉にその経済危機が最もひどく表わされていたわけですが、そういう経済危機以来、国家が食糧や物資を規則正しく送り届けることができなくなったということ、それと、最近では食糧不足が日常的に経験する事になってしまったということ。さっきお話ししたような変化というのは、こうした2つの事柄からの単純な結果なのです。DPRKは最近では、こういう面でたいていの東アジアの他の国々と非常に違っていて、たとえば東南アジアの貧しい国々とよく似ています。最近の栄養状態の指標では、だいたいインドネシアと同じくらいです。

マッキノン:
あなたは、『ジェーン諜報論評』にちょうど論文を書いたばかりですが、その中であなたは、もしアメリカや他国が正しい外交を行なえば、中国と同じような方法で朝鮮を変革と開放へうまく引き出すことができるだろうと論じています。しかし、その体制が自ら進んでどれだけ支配を緩めるか懐疑的だったり、また、ごく最近の悪い核開発行動への見返りと解釈されかねないような、いかなる方法でも朝鮮に援助したくないというような人々もいます。あなたは、どんな種類の政策を勧告したいと思うのですか?

スミス:
最初に、私たちは用語の点から出発しなければなりません。もし外交とはゼロサム方程式だと考えるなら、つまり一方が譲歩を勝ち取り、他方が譲る、宥和イコール外交だと考えるなら、「報酬」は「悪い行い」に対して与えられるべきではありません。私たちは、争っている別々の当事者間で何らかの利害が相互に一致するような可能性のある方法を探すよりも、むしろ、そういう道はふさいでいるのです。もし利害が一致するような方法を探すことの方が外交の真実だと認められたなら、そのときは、あらゆる当事者に何かをもたらす取引を交渉することは可能かもしれません。しかしもちろん、あらゆる当事者のあらゆる利害が満足させられるわけではありません。

ところで、フランス革命以後、今日まで、「現状維持」を目指す国家にとってのジレンマがここにあるのです。ジャコバン派は、今日の朝鮮のように国際外交界でとても手に負えないものと見られていました。それは、文明化された世界の規範に正反対であるすべての事柄を象徴するような、この革命国家(フランス)に対して、対等な相手として交渉することは、多くの人々にとって単に反倫理的だと思われたのです。(話が脱線してすみません。私はただ、大国やその政府にとって、こうしたことは新しいジレンマではないということを示したいだけなのです。)同様に朝鮮とも、交渉は単に非倫理的だとみなされるならば、そのとき外交は、つまり国際紛争の平和的手段による最終的解決は、絶対に不可能です。(こうした気持ちは、今なお、中国に対してのアメリカのある部分で、かつてほど顕著ではないですが、示されていると私は思います。)

他方、もしあなたが、難しい国際紛争でさえ外交でうまく解決することが可能だと考える政府だとして、定義上、外交とは、あなたと価値観や利害を共有していない相手と交渉して、平和的な手段で妥協に至ることを意味するならば、それならあなたは、あらゆる当事者が何かを得られるような、[双方が勝ち取る]ウィン・ウィン状態を生み出せればと考えます。(最近のリビアによる大量破壊兵器の自発的で検証可能な放棄を達成した、ヨーロッパ諸国とリビアの交渉の成功のようにです。)

ところで、私は論文の中で6カ国協議が本格的な交渉に入るなら、西側がかつて冷戦時にソビエト連邦や東欧共産主義諸国と安全保障、経済問題、人権問題で交渉したのと似たような方法、いわゆるヘルシンキ・プロセスへと進むことを勧告しています。6カ国協議は、さまざまな問題で作業グループを作り出すことができるでしょう。単に私の願望ではなくて、韓国(South Korea)の人たちは、人権問題を含めてこうしたいろいろな問題で本格的に交渉できるように、けれど個々の問題の同意が、他の分野での同時になされる同意に左右されないように、そういうことが起こるよう望んでいます。それで最後には、朝鮮に経済的、政治的改革をもたらすものは、制度面の整備、つまり法治とか独立した司法とか、そういったことを通じてのみ起こりうるだろうと私は思います。

私が論文の中で述べていますように、中国では、適切で、予測可能で、信頼できる法治がそこにちゃんと存在するという保証がなければ、どんな外国投資家も中国に関わらないということに中国人が納得したので、変化へのプロセスが起こったのです。経済活動をする者たちのためにこういう法治を定めるということは、そのうえ、外国からの経済投資のレベルと並んで過去10年の間に個人的自由のレベルが急激に高まったような、中国での個人のためになる、そういう同種の改革のための基礎をすえたということなのです。

マッキノン:
それでは、あなたは、金正日の体制が本当に進んで外国投資を受け入れようとしていると、しかも外国人は、普通の朝鮮の人々が外の世界で起こっている事柄について、ここ何年もずっと嘘を吹き込まれてきたと分からせるかもしれないような情報も携えてくるのに、そういう、たくさんの外国人に国を開放することで、支配力や権力を失うという心配もしないだろうと思うのですか? というか、彼らは、朝鮮と韓国との間の離散家族再会についてさえ問題を抱えてきました。再会をすごく管理された出来事にしたり、北の市民が南の親戚と互いに交わるやり方を制限したりしました。こういうことは、彼らがまだ、準備ができておらず、もし彼らが開放したら、誰もが皇帝は服なんか着ていないと分かって、皇帝を通りに放り出すのではないかと、まだ恐れていることを示しているのではないでしょうか?

スミス:
DPRK政府にとっての絶対的な優先事項は、外国投資を奨励することです。平壌へ向かうあらゆる飛行機が、今現在の投資家か、投資する可能性のある者たちで半分は一杯です。こうしたことが今まさに起こっていて、ここ2、3年続いてきました。問題は、求められたり期待されたりする投資の規模なのです。

朝鮮の人たちは、外国投資による現地住民への影響が「流出」するのを最小限にするように、それを一部の場所に制限する飛び地政策を維持してきました。しかし、飛び地政策はうまく働きませんでした。十分な経済収益を生みませんでした。それはまさに、そこで生産された品物やサービスのための現地市場をその場所に作り出さないという意味で、流出効果がなかったためなのです。(たとえば、遠く離れた北東部で主に中国人観光客をひきつけた羅津・先鋒のカジノのようにです。)それで、最近の外国投資は、もっと人口の中心地に向かう傾向があります。(たとえば、平壌とか南浦とかにです。)こうした投資の多くは韓国の人たちからのもので、彼らは1990年代末以来、現在、観光客以外で年に1万人くらい入国していますし、もちろん、みんな同じ言葉を話しているわけです。それだから、こんなふうに朝鮮は以前のようには世界から切り離されていないと私は思います。(神話に反して、かなりの人々が外国のラジオ放送を聞いてるんですよ。BBCワールドが人気があります。)

しかし、たいていの人たちは、もちろん国外の世界について多くを知ってるわけではありません。でも、自分たちが住んでいる国が「社会主義の楽園」ではないと、もちろん知っているし、実際どんな種類の楽園でもないと承知しています。私の見方では、金家族についての神話を信じている人は、ほとんどいません。けれども、朝鮮で社会的結束を保っているものは、a)家族とコミュニティの強い自立意識と、b)朝鮮人のアイデンティティへのプライドなのです。

私は、まだ政府は政治的変化のペースを政治でコントロールできると信じていると思います。私は、彼らが国内からの攻撃、たとえばクーデーターにもろいと考えているとは、それほど思えません。彼らの見方では、外部からの攻撃がDPRKにおける体制変化を突然引き起こすかもしれないというのが、より強いです。

私の考え方は次のようなものです。食糧不足とはいえ、今のところ国際援助があるので飢饉の状態までは起こっていないわけですが、食糧不足の程度や深刻さは、人々が自分たちの家族が生き延びられそうかどうかと心配したり、「端境期」の計画を立てたりしながら毎日を切り抜ける努力をしたあと、時間もエネルギーも残されている人たちは、まったくほとんどいない、というくらいなものなのです。他方、食糧や健康状態にかかわる生存問題を心配しなければならないほど人々が貧しいようなどんな国についても、実際、革命的な変化など予想しないものです。革命が起こされるのは(通常)、人々の生活が多少良くなったときなのです。

離散家族再会問題については、なるほど私もそう思います。これらは本当に残念なことに、厳格に管理され、まったく筋書きが書かれているモデル外交のような出来事になってしまっていました。けれども、そういうのが、研修コースや、講習会や、会議や、十分定期的な海外訪問などで朝鮮の人たちが、韓国の人たちや、世界中の(アメリカ人を含む)その他の外国人と接触するようになってる際の方法を、反映しているわけではありません。私のところの大学、ウォリックにある大学では、たとえば、たいていの他の客員研究員とまったく同じ方法で6カ月間働いた2人の訪問者がいたのですが、それはサッカーのワールドカップをやっていた時で、確か、彼らはイングランドを応援してないときはいつも韓国を応援してたと思いますよ!

それと、「普通」の朝鮮の人々がどこに住んでいるかにもよります。もし彼らが港町とか、中国との国境地帯に住んでいるなら、彼らは外国人と実に多くの交流があるでしょう。少なくとも、どちらかといえば、ということですが。もし彼らが内陸部の人里離れた郡部に住んでいるなら、そういう交流はないでしょう。

マッキノン:
それでは、あなたは、これは外の世界が協力できる体制だと思うのですか? だって、朝鮮が協定に従うということにかけては、あまり立派な実績がありません。

スミス:
これは交渉することができる体制です。それで、みなの側が自分たちの側の約束をだいたい守るなら、それなら取引は「耐久性のある」ものになりえます。韓国の人たちは、経済的な契約について、取り決めている主要な協定が実行されていると考えています。

あなたは、「ワシントンの官僚たちの間」で、ブッシュ政権よりも前からもう何年も、朝鮮もアメリカも、1994年のジュネーヴ核協定の協約を果たさなかったと言っている人たちによって続けられている議論が存在することに気付かれることでしょう。クリントン政権の中には、アメリカが自分たちの側の約束を実行しなければならなくなる前に、朝鮮政府が崩壊するというのを確信をもって予期していたので、協定の約束を果たさなければならないとは決して予想しなかったような者たちもいたと、アメリカの交渉担当者たちは公言しています。まあ、それは10年前のことですが、でも朝鮮の政府はまだ存在しています。

しかしもちろん、このことは、成り行きまかせにしておくべきことではありません。そこが、今の政権が、どんな取引についても「検証可能性」ということを強調するのは正しいところです。また一方で、私たちは、このことを操るハンドルを新たに考案し直す必要もないのです。冷戦時代のソビエト政府とアメリカ政府の間と、全く同じような不信感が存在しているのです。でも、それにもかかわらず、お互いに満足の行く、検証可能な兵器管理がうまく働き、実施されたわけなのです。